深田 上 免田 岡原 須恵

番外編 人吉球磨の「となりまち」東西南北

3.盆地の : 八代方面

 さて、八代市は、熊本県でも二番目の面積(一番は天草)であるから、球磨村、山江村、五木村及び水上村と、最も多くの地域と接している。中でも、坂本町は、坂本村や上松求麻村の時代から、山江や人吉地区との交流があった。それは、旧肥後峠を越して坂本に至る県道17号線が通じていたからである。県道17号線とは坂本-人吉線のことで、八代市坂本町荒瀬から人吉市に至る県道である。この道は、九州自動車道と並走しているが、現在は、肥後峠付近では途絶えている。その様子は、先の「人吉球磨地方の自然:ふるさとの峠道:肥後峠」でも紹介したが、今は山道というよりジャングル化している。国土地理院の地図は、図1に示すように、途中で消えている。今、ここは九州自動車道が走り、全長は6340m、九州地方では最長の道路トンネル(肥後トンネル )となっている。しかしこの県道17号線は、球磨川沿いの国道219号線がまだなかった時代、人吉と八代を結ぶ最短道路であり、八代市坂本町荒瀬から人吉市に至る主要道であった。西南戦争(西南の役)で薩軍の八代や熊本への進撃路でもあり、負けて退いた路の一つでもあった。

 
県道17号線   17号線
図1.県道17号線(坂本-人吉線)肥後峠付近の途絶え箇所 と 拡大図(右)

 広い面積の八代市であっても、市全域が球磨盆地に接しているわけではなく、八代市の場合は、坂本町や東陽町、それに泉町である。これらの町と境をなす球磨郡は、球磨村、山江村、五木村
及び水上村の4村である。中でも五木村中心部から人吉と八代への距離は変わらず、それだけ昔からの交流も深かったようである。五木村から25号線で八代方面に向かうと、五木村と八代市の境界、八代市東陽町河俣の近くに「大通越(おおとおりこえ)」がある。地図には「・ ・ 越」とあるが、現地には「大通峠(おおとおりとうげ)」とあり、図2である。ここには、次のような逸話がある。

大通峠 子別峠
図2.大通峠の展望(出展:Google street view)   図3.子別峠看板の説明文

 「・・南北朝時代には、征西将軍 懐良(かねよし)親王が戦いに敗れて五木の里に一時身を隠されたとき、お通りになった道と伝えられています。そのため、大通峠の名は御通峠の転化したものといわれています」とある。
懐良親王とは、南北朝時代の初代天皇で鎌倉幕府の打倒を図ったあの後醍醐天皇の皇子である。南北朝時代いうのは、室町幕府初代将軍の足利尊氏が後醍醐天皇を廃して新たに光明天皇を擁立した。これを北朝側といい、それに対抗して後醍醐天皇は京都を脱出して南の吉野に宮殿をおいた、これが南朝である。懐良親王という方は、後醍醐天皇の意に従わない西域の首領を征伐するための、まだ幼かった統括将軍であった。八代市妙見町には懐良親王御墓があり、八代市松江城町には懐良親王を主祭神とした「八代宮」がある。

 この大通峠から西へ約7キロ行った所に、幼き懐良親王が親と別れを惜しんだ峠と伝えられる「子別峠こべっとう」というのがある。そんな言い伝えなら「こわかれとうげ」と読むのかと思っていたら、「こべっとう」と読むと看板にあった。図3は、看板にかかれている説明文である。
「かつて五木村の娘たちは、7~8才になると町に奉公に出され、その出発の日に親はこの峠まで子供を送り、先の身を案じて別れを惜しんだ ・ ・」とある。
奉公先は人吉なのか八代なのか、52号線を北西に進めば八代方面、県道247号線で南東に向かい、国道445線で南にむかえば人吉に至る。子別峠から市の中心部までの距離的は八代がはるかに近い。五木の子守歌の歌詞と思い浮かべると、「子別峠」の名の由来は、懐良親王が親と別れを惜しんだ峠というより、奉公に出される五木村の娘が見送る親と別れを惜しんだ峠の方がふさわしいと筆者は思う。

 「大通峠」のトンネルを抜け、ループ橋を渡り曲がりくねった急峻な坂道を下ると素晴らしい里がある。八代市の東陽町、生姜(しょうが)の郷である。同町の生姜栽培量は日本で第二位とのことである(ちなみに、日本一は高知県)。生産量が第二位というからさぞかし広々とした栽培地かと思ったが段々畑が主である。10月にはショウガ祭が開催され、生姜をまとめ買いするために、人吉球磨地方からも大勢の買い物客が訪れる。

 この町と人吉球磨地方のつながりは、もっと他にもある。この町は、球磨地区の石造物を手掛けた「石工の里」である。「種山の石工」は、安土桃山時代に活躍した近江の国の石工「穴太衆あのうしゅう」と同じくらい全国的に名を知られた石工集団である。人吉球磨盆地をはじめ、近隣のアーチ型石橋は「種山の石工」か、その弟子たちによって築造されたものである。

 人吉球磨地方の近世土木産業遺産となっているものは、人吉の「御館御前橋」他8件、あさぎり町の「立岩の舟繋石」など6件、多良木町の「百太郎溝取水口旧樋門」他2件、湯前町の「幸野溝合掌トンネル」他1件、そのほか錦町や相良村にも1件の石造物遺産がある。五木村から県道25号線で走ると、その終点近く国道443号線との交差点付近が八代市東陽町南の種山地区である。443号線の交差点を右折し、300mほどして左折、橋を渡って100mほど直進した左側に種山石工の歴史や伝統技を紹介した「石匠館」がある。ここくれば、この地区の石工達と人吉球磨地方の石造物との関りがよく理解できる。

市来式   市来式
図4.縄文時代、五木と薩摩地方の交流の証である市来式土器(五木村頭地下手遺跡出土)

 八代市や球磨盆地の北から五木村に入るためには、現在は大通峠や子別峠、それに五木村丙地区にある番立(ばんたち)峠を越えてくるのが一般的である。しかし、約1万年前の縄文時代にも、はるか南の鹿児島方面と交流があったことが分かっている。それは、図4に示すような、五木村の旧東小学校跡地の頭地下手(とうじしもで)遺跡から出土した市来式(いちきしき)土器と呼ばれているもので、これは薩摩地方の遺跡から出土する土器と同じだからである。この交流ルートが大通峠や子別峠越えであったか、久七峠や肥後峠を越え、坂本から番立峠を越えるものであったかの確証はない。しかし、五木の山中でも悠久の昔から、人の交流があっことだけは確かである。「となりまち」は「」を境にしていることが多い。

 五木村のもう一つの「となりまち」として八代市泉町がある。合併する前は泉村。泉町の久連子(くれこ)、椎原(しいばる)、仁田尾(にたお)、葉木(はぎ)、樅木(籾木)の五つの集落の総称が五家荘(ごかのしょう)と呼ばれる秘境の地である。五家荘は、紅葉狩りの地としても有名であるが、平家落人伝説があり、五家荘の幾つかは、これまた平家落人の曽孫(ひ孫)が治めたとの伝説がある。五家荘の山地には、これまた、平家と名のつく山が幾つもある。熊本県最高峰の国見岳(1739m)の北西に平家山(1496m)や後平家山(1560m)があり、この南に南平家山(1510m)があり、いずれも白髪岳よりも高い山々である。

 五家荘に残る平家落人伝説の主人公は平清盛の孫である平 清経(たいらのきよつね)である。清経は、壇ノ浦から四国の伊予今治へ逃げ、そこから豊後竹田へと渡り、五家荘の白鳥山(1639m)に住み着いた。その後、四代目の子孫である緒方紀四郎盛行が椎原に住みついて椎原地区を支配し、弟の近盛は久連子地区」を支配した。平 清経が姓を緒方に変えて隠れ住んだと伝えられる300年前の屋敷「緒方家」が、図5左に示すように、今も残っている。図5右は、久連子地区に伝わる平家踊りともいわれる「久連子古代踊り」である。この踊りは臼太鼓踊りの一種で、特徴的なのは、久連子鶏(くれこどり:熊本県天然記念物)の黒い尾羽(おばね)を飾った笠の「シャグマ」をかぶって舞うことである。「シャグマ」とは冠のことである。

緒方家 久連子踊り
図5.左:緒方家   右:平家踊りとも言われる「久連子古代踊り」出典:八代市観光情報

 ここにも、椎葉村と同じような源平恋物語が残っている。椎葉村は悲恋物語であったが、弓の名手として名高い那須与一の嫡男「小太郎宗治」であった。ちなみに、椎葉へ派遣されたのは那須与一の弟「大八郎」である。小太郎の一行が五家荘の手前まで来ると、屋島の戦いのとき、那須与一に「このお扇を討ってみよ」と叫んだ女官「玉虫御前たまむしごぜん」が現れ、「こんな険しい山なので、この先には誰もいない」と語りかけた。それが機縁となって、いつしか小太郎と鬼山御前は恋に落ち、平家であることを小太郎に告げ、承知の上で二人は結ばれ、幸せに暮らしたという。「鬼山御前おにやまごぜん」とは、玉虫御前の世を忍ぶ仮の名であった。

 これまで、人吉・球磨盆地の東西南北における「となりまち」がどんな所なのか、どんな関りがあったのかをみてきた。辺境の地にある「となりまち」は、平家の落人伝説の地でもがあった。中には、卑しい出自(しゅつじ)を由緒ある氏素性(うじすじょう)にしたいという庶民願望もあるかも知れないが落人伝説の地は、東北に4か所、関東に5か所、中部や近畿にそれぞれ10ヶ所、中国に12か所、四国に5か所、九州に20ヶ所以上あり、平家落人伝説は九州が一番多い。多いのは、決戦場となった壇ノ浦から、九州は地理的に近く、清盛が太宰府の要職をつとめるなど平家の地盤もあったからである。しかし、九州が最多な理由は、「落ち行く先は九州相良」に代表されるように、特に相良地方は、険しい山地で、逃げこめば追手は来ないという言い伝えや、逃避先は九州という概念が定着していたからであろう。「落ち行く先は九州相良」のセリフは江戸時代の浄瑠璃「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)」の中に出てくるものであるが、平安時代末期の壇ノ浦で負けた平家が、クモの子を散らすように各地へ落ち延びた時代にも当てはまるセリフである。

 ついでだから、浄瑠璃「伊賀越道中双六」というのは、岡山藩士の渡辺数馬が義兄の荒木 又右衛門の助けを借りて弟(源太夫)の敵である河合 又五郎を討つ話である。「落ち行く先は九州相良」という気になるセリフはどのあたりで出てくるのかというと、それは、数馬の義父が自分の子の十兵衛に、逃げ回っている又五郎の行方を教えるよう自害して訴え、ついに聞き出す。そのときの十兵衛のセリフが「仇(かたき)、河合 又五郎の落ち行く先は九州相良、吉田で逢うた人の噂」である。吉田とは、東海道の吉田宿のことで、今の豊橋市である。浄瑠璃だけでなく、荒木 又右エ門の「鍵屋の辻の決闘」36人斬りは、芝居や講談及び映画にもなり、合わせて九州の相良地方は辺境の地であるという概念も浸透してしまった。

                             
<ヨケマン談義 終り> 

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